なんかもうとりあえず海が見たい

葵ちゃんは美人で可愛くて明るくてお喋り上手でコミュ力高くて頭の回転が早くてノリがよくて語彙が豊富で優しくて考え方が独特でセンスが良くて竹を割ったような性格だそうです、これらすべてこれまでのお客様が言ってくださった褒め言葉なのですが本当にこんなやべえ素敵な人間だったら今頃は六本木ヒルズに住んでる大人気インフルエンサーかカリスマ総理大臣とかになってるはずなのですがどちらにも1ミリもなれていないので単に私のお客様方が優しくてめちゃくちゃに褒め上手だったのだということが我が身を持って証明されてしまいましたこの世は終わりです

ちなみに目付きが悪いとか性格キツそうとか酒ヤクザとかいかにも京都の人っぽいとか声がオッサンとかキモオタとか実はえぐい性癖持ってそうとかのdisも色んなお客様から言われましたがこちらは総じて大体当たってるのでお前らいい加減にしろよな泣かしちゃうぞ

 

最近は週末しかやってなかった自分のお店を大改造劇的ビフォーアフターして可愛い女の子に働いてもらって優しいお客様たちと酒を飲みながらモンハンしたりあつ森したりポケカしたりしてもう一生これがいいなと思う楽しい日々を過ごしています、嫌なことやしんどいことも生きてる以上はそれなりにあるけれどね、確定申告とか住民税とかね

本業の文筆業も大ヒットベストセラー1000万部突破とかそういうのとはちょっと縁遠いけどお陰様で書きたいものを書いて食べたいごはんが食べられる程度には順調にやらせてもらえています、

年が明けてから世界は少し私に優しくなったのかもしれないね

去年はずっと何かに追われてて自分を追い込んでてがむしゃらだったなあ、今年はもうちょっとゆるくやっていきたいなあと思っていたけど早くもゆるゆるになってきました不思議だね

 

そういえば今日ショッピングモールのトイレのペーパー台に置き忘れられた本屋のレシートを何の気なしに見たんだけどあまりにも名前も知らぬこの人の本のチョイスが良すぎてゲロ吐きそうになったしまだこの世に希望はあると確信したな

これは一種の救いと呼ぶものかもしれないし単なる勘違いかもしれない、そもそも最近の日本人は救いだの祈りだのという言葉を気軽にツイートし過ぎだろうと思わなくもない、思わなくもないけれど誰かが救われることが悪いことなはずもないのでまあいいかと思う

コスパのいい幸福は現代人の生きる術だよね

命も時間もお金も才能もすべてがやたらと高騰してる割に賞味期限は短いの本当にどうかしてるよな、神様なんていないと宣う者にあなたにとって都合のいい神様がいないだけだよと教えてあげたいと思っては嫌な人間になったなと自分に苦笑してしまうけど、なんにも後のことを考えずに行動できるほど若くも青くもなくなってしまった今になるとつくづく生まれたからにはいつかの終わりや破滅に向かって歩くしかできないのにどうせ渡る石橋をめっちゃ叩いてんの超ウケるなとも思ったりもして、年々性格が悪くなっている自覚はあるけれど結局のところ何者にもなれなかった自分のことは結構好きなのでこれもまあ悪く無いかと思う

わたしがこうして意味のわからないブログを書くときは大抵眠いか腹の立つことがあって思考をまとめたいときか忘れることにしたはずの何かを思い出してしまって感情がぐらついてるかのどれかなんだけど、今日は多分2番目だなと思うからみんなあんまり深く受け取る必要は無いしなんかまた変なこと言ってんなあと思って読み流してくれればいいよ、Twitterってそういうところだったのにね、いつのまにか春先のニュー速vipみたいになってたね、どういう意味かって?つまんねえってことだよ

考えていることを書き殴るだけでとりあえずは落ち着けるのって一種の才能と呼んでもいいかな

こうして取り留めのないことを延々と何万字も書いて書いて書いて充電が0パーセントになったときのiPhoneみたいにぷつっと意識が消える夜をあと何回過ごしたら満足できるんだろうね、締切のときにこれができたらいいのにねえ

わたしは夏休みの小学生のような感覚をずっと持っているままこんな歳になったからカブトムシを見つけたら今でもはしゃぐしザリガニをどうやったら沢山取れるかとかふと思い出しては考えてたりもするけど絶対もう子供の頃ほどは純粋ではないからあの春の夜に見送った柔らかな死体のことをずっと考えて生きてる部分もあるし魂は明け方の渋谷に置いてきちゃった気もしてる、惚れた腫れたも火事も喧嘩も江戸の花もどうでもよくてひたすら惰性で人生やってる部分もきっとあるしわざわざ自殺するほど暇でもなくてこうやってこんな大人になるなんて思ってなかったけどなあと笑えてきたりするけれど明日は多分違うことを考えてたり何にも考えてなかったりもしてるだろうから人間って難しいようで簡単だよね、ごめん何の話だったっけ

何はともあれ今日はもう寝ようかな、そろそろ朝が来ちゃうから

おやすみなさい

 

世界の約束

愛や夢や東京のことがずっと嫌いで真夜中のインターネットのことだけをずっと好きなまま大人になってしまったみなさんはこのところいかがお過ごしでしょうか、私はとても元気です

私がまだ若くて何にも知らない小娘だった頃に狂ったように好きだったミュージシャンの訃報を聞いて、十代の頃の私なら真剣に「あの人が死んでしまうなんて、どうしよう、私も後を追えばワンチャン握手くらいはしてもらえるのかな」なんて真剣に思ったでしょうに今は物凄く悲しくて落ち込んでしまうくらいで済んで、ああこれは愛が冷めたのではなくて夢から醒めたんだろうなと何となく思ったり、勤め先のお店が移転することになってみんなと離れたくないといい歳して半泣きになったかと思えば移転したらまた会えるとわかって大笑いしたり、来年から始める新しいことの準備にてんやわんやになって死にかけたりと、それはそれは慌ただしくて面白くて一年の色々が凝縮した年末を私は過ごしていました、来年はきっともっといい年になるでしょうね、だってそれが私だからね

最近好きな歌に「寂しい夜を半分、僕に預けて欲しい」という詞があって本当にそれだよなと私は頷いてるんですがわかりますか、何故って私に半分預けてくれたら寂しさの七倍くらいの楽しい夜に変えてあげられると思ってるからで、お前たちは明日が来ることに怯える必要はないよ、明日来るだろう腹筋の筋肉痛に怯えておきなとずっと思っているからです、ねえ信じてくれよ、絶対にその日だけでもしあわせにしてやるからさ

そんなことを言ってるうちにもう今年は終わりそうだけど、嫌なことも辛かったこともしんどかったことも思いがけないロマンスも忘れかけてた古傷も火の付いちゃった焼け木杭も薄っすら纏わり付いてた青春の残像もこの年に全部置いていこうね、もしも置いてきそびれて2024年にちょっとだけ持ってきちゃったら私のとこに持ってきて一緒に燃やそう、任せてくれお焚き上げはかなり得意だからよ

それじゃあみんな良いお年をね

来年もちゃんと迎えに行くから首洗って待ってろよ

わたしより

 

 

 

 

 

 

花畑は燃やせ

随分久しぶりになった

このところの仕事の忙しさときたら尋常じゃなくて文字を書き酒を飲みナポリタンを作りまた文字を書き蝉の襲来に怯えてまた文字を書くの繰り返しだった、つまり例年通りの夏でした

夏の思い出は全部苦々しくてしんどいものが多くて嫌になるから早いとこ冬が来て欲しい、

冬は寒くて白くて綺麗だからあんまり深くものごとを受け止めなくて済むと思ってる、考えることはたくさんあってもね

寒さは言い訳にしやすいから好き、浴びるように酒を飲むのもたまらなく寂しいのもいつでも海が見たいのも全部冬の寒さのせいってことにできる気がしてる

私は心を病んだことが何故かほんとうに一度もないからメンタルが鋼だとか精神が強いとか自分でも思うし他人にもめちゃくちゃ言われるんだけど、それは別に無傷だったわけじゃ全然ないってことはあまりひとは知らないらしくてウケるなと思ってちょっと笑ってしまうし当たり前に寂しいなと思って悲しくなることもあるんだけど次の日には忘れられるだけで寂しかったことが一度もないわけでもないんだけどな、お前ら雪国生まれは寒さに強いって通説をまさか雪国の人は皮膚がステンレス製だと勘違いしてんの?ってのと同じ事なんだけどわかる?わかんないか、まあいいよ

私が病まない理由も強い理由も恐らく根本は同じことで、それは助けてくれるひとなんていないし少なくとも自分に都合の良い神様だっていないんだから自力で立ち上がるしかなくてそのためには座り込んでる時間が長いと立つのがしんどくなるのをわかってる、ってだけなんだよね

人間は人間を救うために生まれてきたわけじゃないからカヲルくんなんてキャラクターが生まれたわけだしねエヴァンゲリオンだね

でもそう、カヲルくんて憧れるよね

君に出会うために生まれてきたって言ってくれる狡猾だけど高潔な救いの手を持つひと、めっちゃいいよねわかる。好き。

でもねカヲルくんが出会うために生まれてきたと思えたのも彼にそう思わせたのもそれはシンジくんだからで、あの細い幼い背中に色んなものを背負ってエヴァに乗れたあの子だからであって、

私や君やお前らは同じことをできるかって言ったらできないんだよ、少なくとも私なら力の限りゲンドウを殴って「うるせえテメーが乗ってから言えカス毒親が調子乗んな」くらいは言って速攻で分籍手続きして他人になるだろうな、だから私にはカヲルくんは現れないし皆にも現れません。

カヲルくんを求めるならシンジくんと同じくらい凄い人間でいなきゃダメなんだよ当たり前だけどね、なんならカヲルくんは既にシンジくんという凄い人を知ってるんだからそれ以上になれないと視線すら合わせてもらえないでしょ、何の話かって?分不相応の話だよ。

何の努力も積み重ねもしなかった人間が白馬の王子様を待ってるのは、まあ待つのは自由だけど

お姫様たりえるなにかを持ってんのか一回見直した方が良いって話だね、そして私は中古の白馬に乗ったパチモン着てる王子様に興味がないし白馬より黒毛の流星つきサラブレッドを追いかけたい人間なので、今度は何の話かって、競馬の話だよ

 

いつものようにとりとめがなくなってきたからこの辺でやめよう

もしかして眠いのかもしれない

さよならサブカルチャー

もう十年以上前、私がまだ女子高生の端くれだった頃のギャルたちはみんなベージュか薄ピンクの明らかにサイズがデカすぎるカーディガンを着て他校のスクールバックを持ちリプトンの紙パックにストローを刺して飲みシーブリーズの蓋を彼氏と交換して大学生になったらテニスサークルに入って肩にアンサンブルニットのカーディガンをかけたエビちゃん押切もえちゃんみたいなきれいなお姉さんになれると信じていたような気がする。
そんなJKという単語が生まれ始めた時代にギャルではなくサブカルクソ女だった私は周りの子が修二と彰どっち派かで論争している横でやっぱり鳥肌実はイケメンだなあと思いながらクソデカのヘッドフォンをつけて毛皮のマリーズを聴いていた。
本当はGO!GO!7188のこいのうたのMVに出てくる女の子のようなきのこみたいなマッシュルームカットにして奥華子リスペクトの赤い眼鏡をかけたかったけれど私がやったらふかわりょう大木凡人になる懸念が強すぎてどちらもできなくて、
それでもクソデカヘッドフォンと古着屋で一目惚れして買ったミリタリージャケットと清水の舞台でバク転するような気持ちで買ったシアタープロダクツの白いワンピースとわざわざやすりがけしたマーチンの10ホールは己の制服だったし、
ライブハウス近くのカフェで刺青だらけのロン毛のお兄さんが出してくれる大して美味しくもない何度も温め直してるであろう珈琲をほんとに大して美味しくないなあと思いながら飲むのはきっと生活への祈りだったと思う。


嶽本野ばらハリーポッターしか読まないライブ仲間のロリータ少女に江戸川乱歩の芋虫を読ませる下卑た遊びに興じたり、ナンパしてきた無名のビジュアル系バンドマンに頼まれてライブのサクラをしたり、時給780円で怪しい雑貨屋のバイトをしたり、あの頃はとにかく退屈を殺そうと必死だったような気がする。


サブカルクソ女だった私はまだ幼かった1999年頃の冷たくて乾燥してて灰色の空気のことがずっと好きで、2000年以降のオレンジ色とピンクの混ざったレゲエパンチみたいな空気が吸いづらくて、倖田來未ケツメイシオレンジレンジ大塚愛セシルマクビーの紙袋も付け睫も梅つば夫婦も全然好きになれなかったし、正直リプトンより紅茶花伝の方が好きだったし、学校へ行こうの話より海に浸かって見る月の話やsyrup16gの話がしたかった。


そうやって自分だけバベルの塔の住人のような気持ちで過ごした思春期は、青くて痛くて可哀想だけど今思えばひとりでたのしく青春してた気もするから不思議だ。


あれから随分経った今の私は本業の原稿に追われつつも週末しか開かないカフェの店番をしたり趣味と実益を兼ねて夜な夜なガールズバーの愉快なおねえさんをしていたりして、我ながらめちゃくちゃな大人になったものだけれど、青かったあの頃に違うところにある塔の住人だったひとたちとたまに出逢えることが増えてきて、
あの頃に出会えたらよかったな、きっと寂しくなかったなとふんわりやるせなくなったりもしたけれど、きっと塔を降りた今だから出会えたんだなと納得もしているから、
ああ私、ちゃんと大人になっちゃったんだなと
なんとなく思った。


とりとめのないことばかり考えていても大人にはなれるんだよね、それはある種の救いかもしれないしあの頃の私が祈った世界に今立てているのこもしれないから、とりあえず今日もそれなりに生きてみようと思う。

青い鳥と三文芝居の話

いつかTwitterからどんどん人がいなくなって残ってるのは中に誰もいなくなったアカウントの廃墟ばかりでTLも最後に更新されたのは二年前の夏でそれももう名前を変えた企業の前の名前のときの広告が最新ツイートとかだったりするような終末のあとの世界みたいなSNSになっちゃったとしても毎日何かをツイートするのは生存者がいないか一縷の希望に縋ってラジオ局を寝ぐらにしている最後の人類のひとりみたいな気分になれてそれはそれで面白いかもなあ、なんて考えていたりしたのにね、今は世界の終わりの少し前にやばい思想の偉い人が世界を終わらせにかかってるとしか思えない行動を取るあの本編にはあまり描かれないで冒頭のナレーションだけで終わる部分で、そこに私達はいるのかなと思う。

幕間か或いは幕前の物語にいるのだと思えばまあそれもそれで面白いなと思わなくも無い。

私は個人的にはイーロンマスクのことは全然嫌いじゃなくて、たとえばこの人が私の住むアパートの隣人だったりよく行くカフェのオーナーだったりしたらめちゃくちゃ楽しいだろうなあ、壁の薄いアパートなのに爆音でKISSかけちゃうとか、

スイーツとナポリタン組み合わせた絶対不味いメニューの試食を迫ってくるとか、そこそこちょっと迷惑なことしちゃうときもあるかもしれないけどそれすらも無邪気で憎めなくて笑えたかもしれない。そういうひとだと勝手に思ってる。

けれど彼は私の隣人でも行きつけのカフェのオーナーでもないし、仮に私の隣人やカフェのオーナーだったとしても街のみんなが可愛がってきた天然記念物の青い鳥を撃ち殺したらそれは流石に無邪気さで絆されはしないし憎まれでも仕方がないから、やっぱりダメなものはダメなんだよね。

けれど例えば私にイーロンマスクよりもずっと資産があったとして、Twitterを買収し直して元の仕様に戻すかと言われれば多分、いや絶対やらない。そこまでできる資産があるなら絶対違うことに使っているだろうし、Twitter自体まったく触らなくなったと思う。

結局そういうことだし、私じゃない大多数の人もきっとそうだろうな。

ただ可愛がってただけの人が私含めて大半で、自分が飼ったりその鳥のために自然公園を建てたりするほど青い鳥を愛していた責任感のある人がどれくらいいたのかな、それが(どんなにおかしな形でも)あったのがイーロンくんくらいだったからこうなってるんじゃないかなあ、と思ったりする。

かと言ってイーロンくんのやり方が正しい正しく無い好き嫌いの話になってしまえば私もきっと

もうそんなこと言ってられない、五年くらい前のTwitterに戻せよ!と暴動を起こして神を罵りながら中指を立てて生卵をぶつけてるかもしれない。

何の話だったっけ、よくわからなくなったな。

 

そういえば私は「自分の人生の主役は自分」という明るくてキャッチーで30000万回くらい見聞きしたハッピー格言のことがまあまあ好きじゃないんだけど、何でかって言うと意見が異なるからなんだよね。

私は、私の人生の観客は自分ひとりしかいないと思っていて、たったひとりしかいない観客すらも楽しませられないならそんな劇は即刻上演中止すべきだと思うし、たとえもしどれだけつまらなくても最初から幕が降りるまでずっと観客席に座っていてくれるたったひとりのためならばどんな茶番も悲劇も喜劇も演じ切ってやろうと思ってる。

そうすると立ち見やチラ見、あるいは途中の章までは、ここから最後までは見ようかなと席に座ってくれる別の観客が現れてくれるかもしれない、と、そういう感覚の人間なので、前述の格言にはあまり共感ができない。大体主役しかできない劇とかつまんねえな、大道具もライトも脇役もヒロインもヒーローも悪役も全部やらせてほしいよ、どうせこの劇めっちゃ長いんだから。とか思ってる。

イーロンくんはどうなのかな、彼は悪役を演じるのが好きな演者なのかもしれないし、主役しかやりたくない我儘な演者なのかもしれない。

彼がどのタイプなのかは勿論劇団の違う私にはわからないけれど、青い鳥が消えて観客が居なくなったがらんとした大劇場に彼がぽつんと何かを演じていて、もしもそこに私が訪れたときはひとりでも割れんばかりの拍手を送って投げキッスをしてから生卵をぶつけたいなと思っている。

 

 

 

 

 

 

一番最初に君を思い出すよ

もうすぐ七月が終わる。
今年も夏らしいことは何ひとつできなかったなあと感慨に耽っていたがよく考えたら八月も夏、
なんなら真夏である。
私はどうも夏というのは七月の二十日から末までのことだと思いがちなところがあって、それは多分まだ学生だった頃の記憶がこびりついてるからなんだと思う。
遠足もデートも当日の三日前から前日までが、
恋も付き合うまでのあのそわそわした期間が一番楽しいように、学生の頃の私は夏休みの数日前から八月に変わるまでが一番楽しかった。
夏休みになったら宿題をどのくらいのペースで終わらせて、今年こそは早朝のラジオ体操も参加して、友達とプールにいって、とわくわくしながら考えては机の下でこっそりスカートをはためかせるあの時間が、一番夏を楽しみにしていたし楽しんでいた気がする。
実際に夏休みに入れば、宿題を早々に終わらせるところまでは計画通りで後は惰性で朝になれば起きて夜になれば寝るだけなことが多かった。
ラジオ体操のカードは週に一度参加のスタンプが押されていれば上等だったし、友達とのプールはそこまで楽しかった記憶がない。泳ぎ始めてしまえば会話なんてほぼないし、帰りはぐったり疲れていてそれどころではなかったから。
そして八月に夢を見る。
まだ夏休みになってすぐだから、八月に入れば今度こそ、と凝りない意欲を燃やす。
だから七月の終わりまでは、夏に夢見て愛していられた。
八月に入った結果は言わずもがなで、わくわくした時間よりも、あと何日しか休みが無いとカレンダーを見ては数えてしまう時間が大半を占めていく。
私はそう、遊ぶ友達もいたし門限も厳しいほうじゃなかったし、そういえば彼氏なんかもいたけれど、夏休みは大体そんなかんじで過ごしている無気力で怠惰な学生だった。
夏祭りもプールも海もすべて空想を超える楽しさを感じたことはなかったし、けれどそれはまったく相手のせいでは無く、私がそもそも夏向きの性格じゃなかっただけなんだけど、とにかくだから今でも夏の概念は七月最後の十日間、となっているんだろうと思う。


そういえば全然関係ないようで関係あるような話だけれど、私は異性は育ちがいいひとが好みのタイプで、けれどそれは顔貌とかお金持ちかとかそんな話ではなく、夏休みのラジオ体操のカードが当たり前にスタンプで埋まっているとか、
あさがおの観察日記が適当な絵ではなく写真付きだとか、読書感想文の本に星の王子さまを選ぶとか、そういうことなんだけどわかるだろうか。
真面目な人が好きなんでしょ、と言われるけれどそうじゃなくて、私はそう、自分が怠惰で無気力な学生だったから。
今言ったようなそういうことをべつ特別なことだと思ってない、真面目にやろうと意気込んだりもしていない、当たり前の夏休みの過ごし方だと思っているような、なんなら思うまでもなくできてるような。
まっとうな感性を、汚すことも歪めることもなく育ってこれたひとが好きなんだよね。
海でバーベキューをしなくても、夏祭りに必ず行かなくても、夏に夢を見なくても生きられるひとのことが好きなんだよ、わかるかな。
別にわからなくたっていいし、ほんとうはそんな人そうそういないのかもしれないんだけど、
やっぱり夢を見てしまうんだよ。


まあきっとそれも夏だからだろうってことにして
今日の日記はこれでおしまい

 

 

 

夏はつけもの

今年もいつの間にか夏がやってきてしまいやがり
この世で最も苦手な生き物こと蝉との遭遇に日々怯えながら過ごしている。
仕事の繁忙期でもあってゴリゴリに体力が削られているのにも関わらず何故か秋には引っ越しをしようとか、八月が九月にはイベントをしようとか
生来の回遊魚的な行動力が夏の陽気に浮かれているとしか思えない所業が目立つ。
最近とくに何故かやたらとハマっているのは漬物をつけることで、昨日はキャベツと茗荷の浅漬けを仕込んだし明日にはオクラと枝豆のピリ辛漬けを漬けようかななんて考えている。
生まれ故郷の京都では漬物は三度の食卓に欠かせないものだったのに東京へ来てからあまり食べなくなった。
私が東京に染まったからかと思っていたけれど、最近になってようやく気付いたのは京都と東京では暑さも風も野菜の質も違うということ。
地元の野菜はそこが地元なのだからそれを食べて育った私の口に当然のように合ったし、東京より京都の方がずっとじめじめしていて暑くて、
風の温度も含まれる香りも全く違うから
柚子や酢橘の効いた塩っぱい漬物がよりよく、
美味しく感じられたんだろうな。
今はもう東京に住んでいるのだから、東京の風と暑さと野菜に合った漬け方があるはずで
それをすればいいだけの話なんだろう。
そう言えば地元の漬物は糠漬けや出汁漬けが多かったけれど、東京で食べる野菜は(生産地が東京のものじゃないとしても)あっさりとした浅漬けか、糠漬けにしても浅めが美味しい気がする。
せっかく東の方へ来たわけだし、漬物めぐりに
東北の方へも行ってみたい。
秋田のいぶりがっことか、山形のだしとか、
実はかなり好きなんだよな。
水戸で食べた赤紫の漬物も美味しかった。


こんなに漬物の話ばかりしているのは、
今夜の東京も暑いからかもしれない。